意思疎通は無視された

とかくコミュニケーションは難しい。


「人間関係」ではなく「意思疎通」の話です。
世界中の人間が電脳化すれば、情報はすべからくデータベースから参照可能なのでしょうが、
現在においては未到達です。
情報が共通知である汎用データベースから検索されるのであれば、知識レベルにおいては
己と他者の差は消え失せます。
個人のアイデンティティは「感情」という属性によってのみ差別化されますが、
それも「人間の精神は外部接触に対する条件反射の連続によって形成される」のであれば、
結局は要素の集合でしかありません。
感情は環境によって求められ、環境は自発的に整えることはできないのだから、
本来の自己などというものは霧散し、後に残るのは外界からの知識と外界からの属性でしかありません。
そもそも行動すらも主体的に選択しているという保証はなく、むしろより現在進行形の条件反射でしかありません。


閑話休題


コミュニケーションは難しい、という話。
それは「対話」あるいは「会話」というツールが不完全なことに求められるだけでなく、
聞き手の「意志」が問題になってきます。


「会話」は「言葉」によって情報を共有します。
しかしながら、言葉は情報「それ自体」ではなく、化合物の含まれた「情報モドキ」となります。
Aの発信した情報はBによって「モドキ」に変化させられ、
「モドキ」は時間とともに変容していきます。
よって、会話による情報共有を成功させるためには、
「情報を入手した時点で、その正確さを高める」
「情報を入手した直後、なんらかの手段で劣化を防ぐ」
この努力が必要になります。
前者は情報提供者との確認によって、
後者はデジタル媒体への保存によってなされます。


しかし、これでも意思疎通は難しい。
情報の共有には、会話ツールの不完全さに加えて「聞き手の意志」が問題になります。
聞き手は残念ながら(幸運なことに)機械ではなく人間です。
情報を共有することは「聞く」ことであり、
聞くことには「意志」が必要となります
そして、人間にとって意志はとかくブレやすい。
安定しない要素です。


結局のところ、核である不安定な意志と、不完全なツールである会話が
コミュニケーションの失敗と困難さを招きます。
これはメールや手紙といった文字媒体によって幾分か軽減されますが、
文字も情報そのものではありません。


ああ、難しい。