小説:『扉の外』【土橋真二郎】

扉の外 (電撃文庫)

扉の外 (電撃文庫)


ここに2つのドットが描画されている。
一つは赤色。
もう一つは青色。
両者が接近し、密着した瞬間、BEEP音とともに、赤色が消滅する。


ここに2つのドットが描画されている。
一つは赤色。
もう一つは青色。
両者が接近し、密着した瞬間、ジングルとともに、第3のドット、黄色のドットが出現する。


導き出される答えは何か?


前者は敵対する二つの勢力であり、
青色が強者、赤色が弱者であると想像できる。
なぜなら、私たちは既にそういった概念を教わったからだ。
理屈ではない、じゃんけんと同じく、グーがチョキに勝利する、同様のことだ。


後者は愛し合う二つの存在だ。
重なり合った瞬間、新たな生命が創造される。
なぜなら、私たちは既にそういった概念を理解しているからだ。
身体に刻まれた経験としてのシンボル的把握。


2つの例から導き出される答えがある。


小説は文脈というツールを使い、世界を形成する。
そこにはグラフィックが存在しない。
だが、比較的容易に把握可能なシンボルをツールとして使用することで、
どんなに言葉を尽くしても伝わらない豊潤でグラフィカルなイメージを用意することができる。


私たちは、既にシンボルに意味性を見いだす土壌を持っている。
その土壌はどこから生まれたのか?
それは人生だ。
人生という物語的体験が、ダイレクトに経験を植え付けている。
言い方を変えれば、土壌を持っているのではなく、強制されている。


『扉の外』はゲーム的小説と括られるだろう。
だが、それは物語展開に於いてのみの話題ではない。
シンボルの活用方法があまりに正解で、狡猾なこれは、
あたかも自身が戦略シミュレーションのシミュレーションを行っているかのように感じさせる。


そう、この小説には「プレイ感覚」が存在しているのだ。
一本道なのに?
読めば分かる。
無限のリヴァイアス』で感じた「何か」に似た、強烈な虚構空間に対するシンパシー。


映画『CUBE』が好きな方は是非。